ほぼ日の吉本隆明コンテンツ

最近は、インプットが大事だと考えて、いろんなコンテンツ(ほとんどほぼ日からですが。(笑))を読んでいます。

ほぼ日には、様々なコンテンツがあって、その中の大きなコンテンツとして「吉本隆明プロジェクト」というコンテンツがあります。

ほぼ日主宰の糸井さんが、吉本さんの「183の講演」をフリーアーカイブ化(アーカイブという言葉の意味をよく知らずに使っています。つまり、誰でもお金をかけずに聞けるって事です)しようというプロジェクトで、2015年の9月かな、それくらいにアーカイブ化されて、今ではPodcastというアプリで全て無料で聞けます。

吉本さんが書かれている「親鸞」という文庫本を一つ買ってみたのですが、まあ難しい。自分の理解力では、全くもって読むことが出来ませんでした。吉本さんの本は一日かけて一気に読まないと、ダメだなと思い、途中で断念してしまったほどでした。

しかし、ほぼ日で糸井さんと対談されている記事を読むと、量があるわけではないのですが、全てが面白い。どう面白いのか、いわゆる知識人であり、何でも知っている、難しい事も書ける、吉本隆明という人が、一般人に分かるレベルで今の世の中、人間、歴史、生き方、様々な事を語っています。その考察、いや、洞察力、物事に対する深い観察は、僕自身、人間観や生き方が大きく変わった事の原因だと思っています。

老人になってから読むとまたおもしろいのかもしれないですが、若者なりに、吉本さんの考え方を取り込んで色々やっていきたいと思っているので、またこのブログで、吉本さんが考えている事の解説と、自身の考えを述べていきたいと思っています。

吉本さんは、何かを書く人、言う人っていうのは、それをもって死ぬかもしれないという事を考えて書かなければならない。とおっしゃっています。僕はまだまだアマチュアですが、僕なりに真剣に書きます。

昨日の出来事。書き残しておきたい事。

昨日の出来事
 
昨日は一日ぶりにかうちゃん(彼女(名称仮))家へ向かった。
正直な話合えただけですげえ嬉しいのよ。だけどどこか心に影があった。
なぜかは分からないけれど、今でもその感情を思い出すことが出来るほど
俺が来た瞬間のかうちゃんの顔、動作とか。
俺を待っていた、んじゃなくて、あー来たか、って思われているような
そんな感覚。
そんなはずないとすぐにその時には切り替えられたのだけれど
こころには薄暗ーい影ができたままのような、そんな雰囲気だったことを覚えている。
 
きっかけは、就寝時のかうちゃんの一言だった。
「明日早めに起きてもいい?」
そういって彼女は、朝の4時半にアラームをセットした。
その瞬間、僕の心の影は、僕自身全てを覆いつくしてしまうような勢いで襲ってきた。
 
この時に気付いた。おれは、この人の邪魔になっているんじゃないか。
それが不安で不安で仕方なかったんだ。
かうちゃんは俺の事を好きでいてくれてる、大事にしてくれている。
そんな風に思っていた。だから、こんな不安な気持ちが自分にあることに
かなりびっくりしてしまって、それはもう、自分を客観視できるほどで
「あー、おれこんな風に思ってたのか」ってよくく気付いた気付いた。
褒めて遣わすぞ。そんな感覚。
 
あまりに、自分が「変」になっていたので、そのときの気持ちを彼女にぶちまけた。
そうすると芋づる式に、自分の感情の根っこの部分が出てきた。
「また人を変えて、そして傷つけてしまうかもしれない…。」
 
僕にはかうちゃんの前に付き合っていた彼女がいた。
もちろんその人の事もとても好きだったし、結婚をすることがゴールだとさえ思っていた。
その人とは別れる事になったのだが、別れる直前の、前の彼女は
僕が好きな彼女ではなかった。原因の詳細は省くが、「思いちがい」ってやつだろう。
お互いがお互いの事を信じられなくなってしまったのだ。
 
ぼくは、かうちゃんに他に好きな人が出来ることも、すきになられることも
性格がかわってしまうことも、人間だから、絶対に有り得る。と思っていた。
そして、それは結果論であって、今の自分がかうちゃんを変えてしまった原因になるのだから
それをいくら心配しても意味が無いし、悩むだけ無駄だと思っていた。
 
どれだけその人の事を思っていたとしても
人生には、それを行動に移す事のできないときがある。
どれだけ会いたくても、他に優先すべき事があって、相手の事を一番に考えられないときがある。
 
僕は、悪い意味で「人を変えてしまった経験」に尋常じゃなく怯えていた。
かうちゃんが僕のことをきらいになることと、かおちゃんを変えてしまうこと
これははっきりと違う。
何故なら、僕のことをかうちゃんが嫌いになるときには、ぼくはその行動を自分で選択して取っているから
嫌われるのであって、それはもう因果関係で結ばれているからこそ
僕の方も納得して嫌われているということになるからだ。
でもかうちゃんを変えてしまうこと、というのは、
僕がかうちゃんのことを好きだったとしても、それが伝わらず
相手が変わってしまうこと、それがわかれることに繋がるんじゃないか
ということだ。
 
ぼくはかうちゃんに、前の彼女を重ねてしまっていたようにおもう。
今は、何の不満不安もなく過ごせているかもしれないけれど
いざ会えなくなったりして、僕が好きにもかかわらず、それが伝わらなくて
かうちゃんを変えてしまったら、また二人とも泣き明かして、しんどい思いをして、
辛く辛くて、もういやだ、、、ってなってしまうんじゃないかって。
 
でもかうちゃんは、ちがう、いやちがうというより、信じよう。と、昨日話してみて思った。
そして僕自身もかうちゃんに信じてもらえるくらい、行動に移そうと思っている。
 
結局、その人を見ないといけない。
きっとかうちゃんだったからこそ、というか
付き合った時から、かうちゃんのことを信頼できる、信用できるって
思えていたからこそ、信じる事、信じてもらえるだろうって思えることが出来たんじゃないかな。
ぼくは、いつのまにか、昔の彼女みたいにかおちゃんが変わってしまうんじゃないかって
思っていたけど、かうちゃんがそうなったら、それはもう仕方ないってかうちゃんも言ってくれた。
それくらい思い切りがついたら、後はもう心配事なんて今はなにもない。
 
結婚とかはよくわからない。今までは、きっとはやく今の
「信じる」という部分を法律的に担保したいなって思いが根底にあって、
つまりは、信じるという言葉を信じる事が出来なかったから、結婚したいって思っていたんだけど、
それがきっと間違いだったんだろうね。
結婚したとしても、お互いを死ぬまで、信じる事が保証されたわけでは無い。
今の何もない状況で
お互いがお互いの事を信じあえている状態に
今はこころがスッとしている。これはもうことばで表わせないくらいに気持ちのいい感覚なのだが、あえて言うとすれば
「幸福感」だろうなと思う。
 
これからも、このとき思った気持ちを忘れたくない。
ずっとずっと考えよう。信じるということはこんなにも深くてなかなかできないことだけど
1回できてしまったらここまで清々しい気持ちになれるんだなあって。

朝起きれなかった人へ。

何にも考えずに、ブログだけ書こうと思ってパソコンを開いた。以前に比べて「何もしない日」に対して自己嫌悪に陥る事が無くなったように思う。これが良い事なのかどうかは分からないが、心の状態として、無駄に嫌な気持ちにならないので、楽である。

もちろん朝、起きれなかった事に対して、あー起きれなかった、もし起きてたらこんな事もあんなことも出来ていた。あーあー。みたいな気持ちになってくる。自己嫌悪に陥ってた時だったら、「何で、起きれないんだ。明日は絶対早起きしてやる。よし5時にsetや。」みたいな前の日を取り返そうと必死で次の日を良くしようという動き方をするわけです。でもね、次の日良い日になるかと言うとそうではなくって、もし5時に起きれたとしても自分が計画していた事の半分も出来なくて、あーまた損した。って気持ちになったり、朝5時起きれなくって、また起きれなかったみたいな気持ちになったり。

そんなことを繰り返していると、起きれなかった事は仕方ない。よし、動きたくなったら動こう。って感覚になっちゃったんですね。こっちの考え方の方が超ストレスフリーな気がするんです。仕方ないってことばは世間では悪いことばとして使われます。ぼくはむしろこのことば、肯定的に使いたいなあ。「だって人間だもの」ってことばに近い。だって仕方ないもん。考えるだけ無駄じゃん。ということって結構世の中にあふれているものですよ。・・・ということを書いていると、じぶんを正当化するってこういう事なのかなって思ったり。(笑) まあでも今はこれ本心で思えています。また考えが変わるかもしれないけど、今はこの考え方が楽だし、好きだなあ。

そうあとねもう一つ良いのは、もうあきらめがついて、自分が本当にしたい事が出来るんだよね。やんなきゃいけない事ってあると思うんだけど、こういう日がたまたまできちゃうと、あーもういいや。別日に頑張ろ。今はこれ読みたいから読む。これみたいからみる。みたいな単純に自分がしたいことを好き勝手する時間になる。これはね、現代の大学生はあった方がいいと思う。皆好きじゃない学業に一番時間割いてやっちゃってるわけだから、ご褒美としてこんな時間があってもいいんじゃないかなあって思うよ。それとね、本当にやんなきゃいけないことを考える時間にもなるのよね。僕だったら引っ越しの準備しないとなあとか、1月以降に自分が何をしようとしていたのかノートに整理する時間になったりとか。

 

ま、そんな感じで僕と同じような時間を過ごしてしまった人は自己肯定する為にこの文章をお読みください。(笑)

ほぼ日手帳2冊買いました。

今日はロフトでお買い物。買うものは決まってました。そうほぼ日手帳。ちょうど年末なので手帳の買い替えシーズンですよね。

前から2冊あった方がいいなって思っていたので、2冊購入することにしました。簡単にその手帳について言うと、毎日の日記を付けられる手帳なんです。もちろん日記じゃなくてもいいのですが、カレンダーの後ろに、全ての日に1ページ分のスペースがあります。いろんな使い方をほぼ日では紹介しています。

で、何を書きたかったかというと、ほぼ日手帳を2冊買ったこの高揚感を伝えたかったのと、何を書くかを書こうかなあって思ってるって感じです。

1冊は、ほぼ日の今日のダーリンという糸井重里が毎日書くコラムを写経する為に買いました。この今日のダーリンというコラム、毎日更新されるんですが、毎日消されるんですよ。すごい儚いでしょ。糸井さんはそうする理由を、「僕がそうしたかったから」とだけいっているんですが、楽しみにしている側からすれば、「残しといてくれてもいいじゃん!」って感じなわけです。そんなファンの声には一切耳を傾けない人なので、僕たちが何とかするしかないわけですね。という事で、写経しています。写経が良いと思ってやっているのはそれだけじゃなくて、自分の書くスキルの向上にもつながるだろうと思い、やっています。まだまだ気づきは少ないんですが、例えば糸井さんって「自分」という言葉を使う時に必ず「じぶん」ってひらがな打ちにしているんですね。他にも、「ことば」とか「~のほう」の「ほう」とか、あえてひらがなでうっていることに気付くんです。まだまだこんなもんなんですが、微かに自分が書く文章と糸井さんの書く文章は、違うなあって思うんです。明確にこことは言えないけど、自分が書いた文章と糸井さんが書いた文章を他の人に見せたら一発で当てられるだろうなという感覚です。第六感的な要素が強いのですが、まずは何でも型だと思うので、糸井さんの文章の写経は継続的にやっていこうかなと思います。

もう1冊はと言うと、普段使うものとして買いました。こっちが表向きですね。表向きの方のカバーはmotherというゲームの背表紙がプリントされているものにしました。motherというゲーム、僕はやった事がないのですが、噂には聞いていて、「ロールプレイングゲームなんだけど、なんだかあったかそう」みたいな勝手な印象があります。普通のロールプレイングゲームって、街の人とかって同じことしか喋らないじゃないですか。無機質な感じがしますよね。だって、リアルな世界じゃありえない話だもの。でもmotherは話しかけると、いろんな返しがあるみたい。(真偽はいかほどに。(笑))

何でmotherにしたのかと言われると、一つはデザインが可愛くて、開きたくなるようなデザインだったから、というのがかなり正直な話なんだけど、もう一つは、人生ロールプレイングみたいなもんだなって事を忘れないようにしたいなあって思ったんです。ゲームみたいに上手く事は運ばないけど、なにかと何かが重なって、繋がって、光が差すみたいな事って、現実の世界でもよくある話で、誰も意図して作った機会じゃないのに、化学反応が起きて奇跡が起こるってよくある話だと思うんですね。ゲーム中だと、謎解きみたいに、誰かが考えた謎を解き明かすだけになるけど、人生においては、答えなんてなくてどこにヒントが落ちてるかなんて、分からない。だから、自分がちょっとでもやってみたいとか、行ってみたいとか、読んでみたいって思ったものには貪欲にならないといけないんじゃないかな、そうじゃないとそう簡単に伝説の勇者にはなれないんじゃないかなぁって思ってたわけです。現実は暖かいだけじゃないんですけどね。

(話が長くなるけどここは書かせてほしい。(笑))でも、そういう気持ちって忘れがちじゃないですか。少なくとも自分は、保険ばっかり考えて前に進んでない!みたいなことがたくさんあったからさ、あの手帳を開いたときは、冒険が次の章に進んだ時みたいな感覚を得たいなあって思って買ったんです。

という事で、今日は温泉に行って、体を休めて明日の夜勤に備えよう。(笑)

 

書くというのは、大切な事だと素直に思える文章が書けた日は嬉しくなるね。

 

素振りの回数

クリスマスになんでこんな事考えないといけないんだろう。あー昨日書くって書いちゃったからなぁ。自分ルールは破りがちだから、できる限り守る。

 

素振りの回数。僕は、素振りの回数だけで言ったらプロレベルでやってんじゃないかな。って思ったことがある。それこそダイヤのAの不動の4番。結城哲さん(野球界で1番カッコいいと思ってます。)の努力には負けるけど。

 

なんで、プロになれなかったんだろう。野球でプロになれなかった経験から、おもしろい大人になる為のヒントはすっごくありそうだから考えたい。

 

僕の素振りのスタンスというのは、「今日は50回やったら終わり!」というものであった。今考えると時間の無駄以外の何者でもない。素振りとは何か?について深く考えてはいなかったからだ。監督や、コーチがやれと言ってくる。野球マンガの主人公、友達。みんながやっているから、そいつらよりも多くやればきっとうまくなる。そう思ってやっていた。

これは人間の心理的に言うと、負けず嫌いとか、自己・他者承認欲求とかって話になるのかな。この欲求に振り回されて僕は野球をやっていたわけだ。

よくイチローや、本田が小学校の卒業論文の時に、プロを目指していた事を書いていることが、とりだたされるが、あの時から、彼らは周りの目、承認欲求などに振り回されずに、どうすればプロになれるのか。を真剣に考えていたのだろう。

彼らに才能があった事は明白だが、イチローは素振りを回数では捉えていなかったはず。

 

素振りって人生においては、日々の生活に置き換えられるのだろうなと思う。何で生きるのか。こんなことをずっと考えるとしんどいけどさ、毎日が、自分の将来を決定付けると思ったら、相手からの目とか、承認されたいとか馬鹿馬鹿しいことに振り回されずに済むんじゃないかな。

 

素振りの回数って馬鹿にならないんだよ。だからこそ一振りを大事にしたい。

 

自己紹介っぽいやつを。

 

・素振りの回数

・素人に分からない玄人のすごいところ

・監督とキャッチャーの業務の棲み分け

・キャッチャーについて(長期連載)

・野球偏差値

・今から野球を始めるとしたら…。

 

僕は野球を9年間していたので(今はもうやっていない。)野球の事に関しては結構色々書けることがあります。タクティクス的な野球ではなくて、野球という例を通じて今僕が大切に感じている事を読んでいる方々に伝える事が出来るだろうというのが上の6つくらいのもんですね。結構どれも本気で書かないといけないので、今日はそこまで気分が載らないので明日から文章を考えようかなと思います。明日は「素振りの回数」。